サングラス [2024/05/03,09:41:36]
サングラス(眼鏡の上からかけられる)のバネがバカになった。重宝していたものなので使い捨ては忍びない。何軒かのメガネ屋チェーン店に修理を頼んだが、案の定、けんもほろろ、取り付く島もない。新しいものを買ってくださいの一点張りだ。そこで駅前にハンドクラフトやアンティーク時計、ジッポーなどの専門店があることを思い出した。藁にもすがるつもりででかけたら、「あいよ」と、すぐに直してくれた。4千円ぐらいサングラスなのだが修理代は千円。以前ここで時計のバネを交換してもらったことがあった。ここならたぶん専門外のモノでも可能なら修理してくれる、という職人の矜持のようなものを感じていたのだが、それが正解だった。こんなお店がどんどんなくなっていく。時代の流れと言えばそれまでだが、老兵は消え去るのみなのか。そうじゃないだろう。
収穫物 [2024/05/02,09:53:37]
無明舎は基本的にカレンダー通りで進行する。週末と祭日は休みで、夏も冬も大きな休みは申告すれば自由にとれる。その態勢でいまのところ何の問題もない。私の場合、事務所にいるのが大好きだ。週末も祭日も山や旅以外はほとんどだから事務所にいる。事務所にいるが仕事をしているわけではない。本を読んだり、映画を観たり、料理をしたり、大音響で音楽を聴いたりする。ときどきは書きものや調べものに没頭する。誰の干渉も受けない、自分だけの空間がある、というのは贅沢なことだ。自分でもそれは自覚している。だからこの空間と時間を簡単には手放せない。誰とも会話がなくても、このなじんだ空間なら、何日間でも「孤独」でいることができる。長く生きてきて自分の手に入れた、これが唯一の「収穫物」かもしれない。
舟橋武志さん [2024/05/01,09:31:35]
友人の舟橋武志さんが亡くなった。舟橋さんは昭和18年生まれ。名古屋駅前で小さな一人出版社と古書店を営んでいた。初めて会ったのは40代の頃で、彼は独身でキャバクラ通いを面白おかしくブログに書きなぐっていた。60代になるとマラソンに狂い100キロマラソンを完走するほどに。しかし膝を痛め、そのリハビリのため自転車に乗るようになった。70代になると全国を「ママチャリ」で走破するという冒険に乗り出すした。65歳の時に30歳以上年下の嫁さんをもらい、出版不況をものともせず、しぶとくこの世界で生き残ってきた。1カ月間、店を臨時休業し、黄色のヘルメットにサンダル履き(!)、ママチャリでひたすら日本全国を走り続けるのが、最近の「趣味」だった。そのさなか、80歳でがんが見つかり、余命2年を宣告された。それでも懲りず「がんジジイのママチャリ九州1周旅行」を企画中だった。そのレポートを心待ちにしていたのだが、かなわなかった。合掌。
240円 [2024/04/30,10:44:03]
初めて海外旅行したのは1977年、ブラジル各地を回る2カ月の取材旅行だった。この時の為替レートは240円。このレートは85年のプラザ合意までほぼ変わらなかった。アメリカのドル高是正のためのプラザ合意以降、円は一挙に150円まで跳ね上がり、海外でお金を使うことにほぼ抵抗がなくなった。それは実体験として記憶に刻まれている。日本ってすごい国なんだなあ、とひとり海外で感じいった。この150円時代から、民主党が政権を取った00年代後半、ドルは80円台という、ちょっと信じがたい値を付けた。沖縄に国内旅行に行くより、地球の反対にある国に旅する方が安く済む、といわれた時代だ。ブラジルに行くには30時間近く飛行機に乗る。そのため「エコノミー症候群」が怖くなり、ビジネスクラスのチケットを初めて買ったのもこのころだ。いま160円を大騒ぎしているが、240円時代を知っているものとしては、複雑な心境だ。それよりは、毎日飲む安くてうまい海外ワインの値段が上がることのほうが、個人的には大問題だ。
天ぷら [2024/04/29,10:57:23]
料理の世界にも技術革新がある。つい先日まで「高級料理」の代表選手だった天ぷらが、いまはファストフードのような手ごろな値段で、誰もが食べられるメニューに変わった、というニュースがあった。ステーキもお寿司もすき焼きも、そうして大衆化してきたわけだが、「天ぷら」だけはその流れに乗るのは難しい、とひとり勝手に思っていた。しかしもう都市部では「安い高級天ぷら屋」は当たり前だという。どうやら天ぷらを揚げるフライアーに秘密があり、このフライアーの科学的な技術進歩により、素人でもプロのように「中がしっとり、外カリカリ」の天ぷらが可能になったのだという。カレーやおでん、果物までジューシーな天ぷらにすることが可能になったというのだから驚いてしまう。天ぷらは高級料理という固定観念に凝り固まった当方としては、交通費を使ってもいいから、一度はその「安い高級料理」を食してみたい。
反省 [2024/04/28,10:58:54]
「小さな目標」だった太平山中岳に登って、一夜明けた。筋肉痛はないが、反省点はいっぱいだ。登ることばかりに全力投球、帰りの足がボロボロだったのは恥ずかしい限り。さらに、山中はものすごい虫で、防虫網や薬を忘れた。暑さと水の問題はギリギリクリアーできた。メチャクチャな汗のかきかたはしなかったし、水分もそれなりに調整できた。ひとり登山の問題は「休憩をとらないこと」。一歩でも高さを稼ぎたくて、そのあせる気持ちが、休みなく歩き続けるという行為に結びついてしまう。30分に1回は休まなくては、と心では思いながら、結局は不安に駆られ、中岳まで1度しか休憩をとることなく駆け登ってしまった。これが下山の時に使う足に跳ね返った。登山口にたどり着いた時には、全身が痙攣直前でピクピク、青息吐息だった。登頂達成感より、まずは筋肉を休めることが手いっぱい。次回はこのあたりを改善、笑顔でゴールしたいものだ。
中岳 [2024/04/27,17:01:23]
今日ついに中岳に登った。ひとりで登ったのは初めてだ。というか中岳そのものがもう10年ぶりくらいだ。中岳は冬に登るイメージが強かったのだが、山頂小屋付近にはまだ雪があった。オーパス・リフト口から登り出したので、2時間ちょっとで山頂まで着くことができたが、登りですべての力を使い果たしたので帰りはヨレヨレ。登りと同じくらいの時間をかけてフラフラになりながら降りてきた。登ったのはいいが、この下山のぶざまさはいただけない。下山時、大きな蛇を見た。2時ころだったから登山客はもうほとんどいない。それをわかって道に出てきたのかもしれない。私が最後の登山者のようで、登山口に着いたら車は私のモノだけだった。この山は「午前中専用」の山なのだ。何はともあれ念願の中岳を登頂できた。よく頑張りました、と自分をほめておきたい。下山のことは忘れることにして。
黄砂 [2024/04/26,09:25:58]
このごろ夜になると目がグリグリする。グリグリというのもヘンだが、瞼のあたりが腫れぼったくなり、重くなって異物がたまっているようなヘンな感じなのだ。かゆいわけでも痛いわけでもない。何かが瞼から「入ってしまった」ような、眠気をじっと我慢し続けているような、ビミョーな違和感の症状だ。もしかしてだが、これは「黄砂」と関係があるのではないのだろうか。あるいは「黄砂アレルギー」。花粉アレルギーとは無縁の体質なのだが、今年に入って急に、この瞼の周辺だけ異変が生じた。いくら考えても原因はわからない。そうなると犯人を外に求めるしかない。外的要因による症状だ。もう年なのだから、体のいろんなとことに異常があるのは特別なことではない。でもその異変が少ないことを「自画自賛」してきた身としては、なんだか納まりの悪い。犯人は黄砂なのだろうか。
加藤富夫 [2024/04/25,09:45:31]
4月に入って「憑かれたように」高校時代の担任だった加藤富夫先生の遺した小説を読み漁っている。若くして事故死した先生には生前1冊の著作しかない。死後、秋田書房から2巻本の「作品集」が刊行されているが、これらを合わせても、9本の作品が今も読むことが可能な作品だ。10年間という短い創作期間に発表された先生の作品は18本。そのほとんどが「文學界」と「早稲田文学」に掲載されている。その雑誌のバックナンバーにはまだ手を出していないが、新人賞受賞作や4回の芥川賞候補作は読了した9編にすべて入っている。予科練の生き残りであり、戦後の瓦礫の風景のなかで、現代の不安と恐怖を、土俗的視座から描き続け、将来を嘱望された作家は、もっと評価されてもいい。これは私の単なる身びいきだろうか。血族や鎮魂といったテーマの重苦しさを嫌う向きもあるだろうが、加藤文学の底に流れている「喜劇性」は、秋田大学時代に所属していた演劇サークルの活動の中ではぐくまれたもののようだ。図書館に通って未読の9編を読み通してみたいと思っている。
戦時下 [2024/04/24,09:56:50]
戦時下(太平洋戦争)の秋田の若者たちのことを調べていたら、興味深い記録に出会った。昭和18年、県下の旧制中学校では7月に「全県中等学校合同演習」という大規模なイベントを開催していた。これは県南、県北に分かれ県下の中学生が行軍し、能代の東雲で遭遇戦を展開する、というものだ。例えば横手中学生ならば、木銃を担いで炎天下、神宮寺、和田、金足と北上、徹夜で能代まで歩き通す。夕食は民家でとり、宿舎は国民学校だ。能代の東雲原が演習場で、ここで県北と県南の中学生が空砲と木銃で対決する。これが当時の少年たちの「まつり」であり「遠足」でもあったわけだ。昭和16年にはすでに中学生の学帽は戦闘帽に代わり、制服も国防色といわれるカーキ色、登下校時はゲートルをまき下駄や地下足袋だ。戦況が厳しくなる昭和19年、3年生終了と共に軍の人事部の割り当てを受け予科練や幹部候補生に半強制的に志願させられるものが急増する。こんな時代があったのだ。

FREE imgboard v1.22 R5!!