Vol.1270 2025年5月2日 週刊あんばい一本勝負 No.1262

ゴールデン・ウイークが始まった

4月26日 今日からゴールデン・ウイーク。こちらは相変わらず、「いつも通り」。大谷フィーバーになればロスまで野球を見に行き、サッカーのためなら仕事を休み南アフリカまで出かける人たちの気持ちが、わからない。そこにかける金と時間を少しでいいから私に譲って、と思ってしまう田舎者だ。浮かれて外に繰り出す時は家でじっと仕事をするのは快感でもある。GW初日は薄曇りの晴れ。絶好の仕事日和だ。

4月27日 新聞の書評欄で新刊を5冊まとめ買い。合計金額が1万円。本の定価が2千円から3千円台になってしまったので5冊ぐらいでもこの金額は行ってしまう。「大人買い」というやつだ。そういえば先日、モンベルで同じシャツの色違いを5枚買った。同行者から「大人買いしますねえ」と呆れられた。数日前は、事務所での料理に欠かせないカセットコンロの調子が悪くなり、イワタニのもっとも高額のカセットコンロを買ってしまった。普段はほとんどお金を使わない、エンゲル係数だけは高い質素な生活をしているのだが、春先は金銭感覚もおおらかになってしまうのだろうか。

4月28日 『飛脚は何を運んだのか』(ちくま新書)という本が面白い。新書判なのにページ数は410ページもある。これだけの分量なら「普通の単行本」ではどうしてダメだったの、と疑問に思う読者もいるだろうが、これは今の出版業界の苦しい台所事情を反映している。この本を普通の単行本にすれば350ページ前後の、定価は今の相場で2千円超え、初版3千部というあたりが妥当な線だ。しかし、テーマは面白いし、定価さえ安くできれば部数はもっと行ける。そこでページ数は増えても制作コストが安く上がる新書判にして、定価を1300円にすれば初版1万部はかたい。新書判は廉価で読者のハードルが低い。2200円で3千部、と1300円で1万部、なら版元は躊躇なく「分厚い新書判」のほうを選らぶ……というのは田舎の出版社オーナーである私の独り言。でもまあ間違っていないはずだ。

4月29日 『飛脚は何を運んだのか』は一晩で読了。面白かった。手紙や荷物を運ぶ飛脚の存在は平安時代末期までさかのぼる。鎌倉時代の絶え間ない政治対立と戦争が飛脚を生みだした理由だ。江戸時代にそれはビジネスとなり、明治に入り、政府は飛脚問屋との契約を打ち切り国営郵便制度設置に舵をとる。戯作者・馬琴の日記を手掛かりに、飛脚の歴史的役割を文献資料で裏付けていく構成した本だ。一言で飛脚とはいっても、人間が荷物を運ぶものと馬荷物を監督しながら街道を往来する「宰領飛脚」がある。人と馬の2種類あったわけだ。この宰領飛脚の存在が面白い。このへんはもっと詳しく知りたかったところ。巻末近くで「狐飛脚伝説」にも詳しく触れている。狐と飛脚といえば秋田市の「与次郎稲荷」が有名だ。なぜ飛脚と狐は相性がいいのか。その狐飛脚伝説が、なぜ日本海側に多く残されているのか……興味尽きないトピックスが満載だ。

4月30日 録画していた映画を見る。成瀬巳喜男監督の『山の音』とビリー・ワイルダー監督『昼下がりの情事』だ。どちらも1950年代に撮られたモノクロ映画だ。「山の音」は川端康成原作で、この時点であまり期待していなかった。川端文学にはユーモアがないし、主演の原節子は、変化のない平板な同じ表情、演技ばかり。「昼下がり」は3度目だが、何度見ても面白い。ワイルダーは「寅さん」の山田洋次監督なのだ。自分が生まれたころにつくられた映画を見るのは、記憶のない時代をしのぶ「よすが」になる。ああ、こんな時代に自分は秋田の片隅に生をうけたのか、という思いで親近感がます。

5月1日 今日から5月。雲一つない青空。今日は布団を干さなくては。5月は新刊が2冊以上出る予定。GW明けには「東京行」も計画中だ。何年ぶりだろうか。秋田(横手)の出身で、民俗学者・宮本常一の元で写真家として行動を共にした須藤功さんを神奈川のご自宅に訪ね、いろいろお話を聞くつもりだ。膨大な民俗写真の数々も見せていただくので、その準備時間(予備知識)も必要だ。さらに、花々の咲きそろう秋田の5月の山にも登りたいし、若い人(話を聞きたいという人が増えてきた)と話する機会を作りたい。「秋田学入門」の「続々」も5月中に脱稿予定だ……と揚げだすときりがない。時間は有限だ。足元のことからひとつずつ片づけていくしかないが、やりたいことを考え出すと頭の中がパンクしそうになる。

5月2日 今日も青空だが強風が吹き荒れている。強風の青空というのは気持ちがざわつく。雲一つない空の下で、公然と音の暴力が容認されているような気分だ。威嚇が半端ない。自転車は吹き飛ばされるし、物干し場のポールも飛ばされたほど。家自体が風に震えているのだから、たまらない。こんな時は外に出てもろくなことはない。仕事場でじっとうずくまっているのが得策だ。やることは山のようにある。ひとつずつ片づけていくか。それにしても「音の暴力」というのは関西弁のヤクザのタンカを絶え間なく聞き続けているようで、圧迫感がすごい。
(あ)

No.1262

すべての罪は血を流す
(S.A.コスビー・加賀山卓朗訳)
ハーパーBOOKS
 本書は、私が一番苦手な、銃でバンバン人を殺し、猟刀でのどをかっきる、凄惨な殺人事件が連続する、はでな犯罪小説だ。主人公は黒人の郡保安官、舞台はいまだ白人至上主義の人種差別が大手をふるう南部ヴァージニア州の町だ。探偵小説も警察小説もノワールも猟奇もミステリーも大嫌いなので、この手の本は読むことがない。信頼する作家が勧めていたので、いやいやながら(笑い)読んでみることにしたものだ。読書には時にこうした他動的なきっかけも必要なのだ。とはいいながらも思った以上に人が殺され続ける展開に、うんざりというか体に震えがきた。それでも次のシーンを読みたいという好奇心は衰えることがなかった。どうにか読了できたのは、黒人社会や主人公家族の人間模様が詳細に記されていたからだろう。奴隷制が廃止されて150年、あのトランプを支持する白人至上主義者らは、いま現在も虫けらのように黒人を血祭りにあげることを「人生の重要な目的」にしている世界を描いているのだ。極東の島国の人間にはとても理解できない現実だが、映画「グリーンカード」も似たような現実を描いていた。人気黒人ピアニストのコンサート会場で、主役であるピアニストがホテル内のトイレ使用を拒否され、外の便所に行け、と指示される場面は強烈だった。アメリカではまだ南北戦争が生きているのである。

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