Vol.1302 2025年12月13日 週刊あんばい一本勝負 No.1294

いま日本酒は「両関」がトレンドらしい

12月6日 週末も仕事場にいる。朝寝坊はする。これは週末の特権のようなもので、遅く起きても家人は怒らない。1時間以上かけて冬用寝具類のチェック。昼近くに出舎、いつも通りにコーヒーを入れ、お茶を作って、昼飯の準備。新聞を切り抜き、メールをチェックし、朝のブログを書く。自前の昼飯後は、自分の原稿書きや調べ物で3、4時間、あっという間に過ぎてしまう。夕飯は早くて5時半だ。家の食卓につくが、相変わらずノンアルだ。夕食はすぐに終わり、風呂を洗って、夜の散歩に出る。散歩から帰るとまた仕事場でダラダラ、映画を観たり、録画したドキュメンタリーを観る。9時になるときっかり家に帰り、風呂に入って、本を読んで、12時ころには就眠、となる。夜は何度もおしっこに起きる。これは最近、意識的に水分を摂るように心がけている結果だ。夜尿症とは無関係、と自分では信じている。

12月7日 1年中、散歩に出ない日は数えるほどしかない。1980年に手形から広面に引っ越して、家と仕事場が同じ敷地になった。いわゆる職住近接で通勤時間はわずか30秒。仕事場が好きなので、ここから外に出ることはない。家に帰るのは夕食と寝るためだけなので、ほぼ引きこもり。これが何十年も生活習慣として続いている。敷地から一歩も外に出ることなく1日が終わってしまう。「散歩の習慣」は、追い詰められた動機から生まれたものなのだ。散歩は暇をつぶし、退屈を埋めるための最強の基本的な行動。よく歩くものはよく考える。よく考えるものは自由だ。自由は知性の権利……と言ったのは作家・島田雅彦だ。散歩も仕事の延長で、だから道連れは万歩計ではなくICレコーダーだ。アイデアや考え事を歩きながら吹き込む。そんなこんなで散歩は朝の歯磨きと同じ、になってしまったわけである。

12月8日 150台の血圧がなかなか下がらない。日本高血圧学会というとこで今年に入って75歳の降圧目標値を従来の140/90から130/80に引き下げる治療指針を出した。ますます血圧プレッシャーは強まるばかりで、医師からも「そろそろ薬を飲みましょう」と圧がかかっている。厚生省の1987年の基準では180が「要治療」値だった。それが90年には160/90になり、00年度には140/90になった。19年には75歳以上は140/90だったのだが、さらに引き下げられ今回の数値になった歴史を持っている。こうした数値の変遷を見ても、いまだ「薬を飲む」ことに抵抗があるのは、世界の医療基準は日本とは逆行しているからだ。海外では血圧を下げすぎるデメリット」が議論されているのだ。血圧と死亡率の関係で、高齢者は「160」が最も死亡率が低かった、というデータもあり、降下剤で20以上血圧を下げた人の死亡率が逆にあがった例も報告されている。世界基準は日本の数値とは逆の方向を向いているのである。悩ましい。

12月9日 昨夜の地震は久々に肝を冷やした。こちらは震度4でしたが、あの揺れは3・11を思い出させるほど強い揺れだった。玄関の靴箱の上の置物が地面に落ち、何よりも夜中の出来事だったので恐怖感はいや増した。3・11の時は昼時で散歩中だったが、その日の夜の余震と同じくらいの恐怖だった。長く生きてきたので、「この頃地震がない。危ないなあ」と漠然とだが、寝る前に考えていた。やっぱりなあ、というのが年寄りの感想だ。

12月10日 駅前ロフトで来年のカレンダー、手帳類を買ってきた。もう20年近く「ほぼ日」製のものを使っている。ロフトでしか買えないのだ。事務所や個人、家庭用までまとめ買いするから、結構な金額になる。昨夜は知人と会食。いつも行く「和食みなみ」の一番軽いコース料理を頼んだのだが、最後は腹いっぱい。秋田の日本酒の最新事情をレクチャーしてもらい、今は「両関」がトレンドなのを初めて知った。

12月11日 知人との会食でお酒を飲んだので、夜のお風呂はやめた。テキメンに夜の眠りが浅くなり、何度も夜中に起きてしまった。そんなこともあり昨日は昼に事務所を抜け出して、河辺にある「ユフォーレ」でゆっくり温泉につかってきた。昼もそこのレストランで生まれて初めて「天ぷらざる中華」なるものを食べた。温泉の効果は絶大だ。寝ていても身体の中心がほてっているのが分かった。ぐっすり熟睡、体も軽い。本を読まなくても睡魔が襲ってくるなんて久しぶり。体から疲れや心の垢までが溶け出していく。こういう体験は月に1,2度は必要だが、やることの優先順位からはいつも漏れてしまう。

12月12日 「島にて」という映画を観た。今ひとつピンとこない。飛島はもっと魅力的で、退廃的で、魅力のある島、と、こちらは勝手に思いこんでいるから、もっと攻めてほしかった。文化的遺産や民俗学的視点は意識的に避けていたようだが、もう少し暮らしにも掘り下げが欲しかった。この島にも移住を促進し、島に住み込んで住民をサポートする若者たちの会社があった。彼らが「未来」のように描かれているが、秋田の過疎地にもよくある「移住促進」の名を借りた政府の補助金目当ての「過疎ビジネス」との関連はどうなんだろう。映画を見る限り、そんなことはなさそうだが、税金を使ったイベントは長続きしたためしがない。裏でお金のトラブルや不正が見つかるケースも後を絶たない。1時間半の、静かで穏やかな映画で、ドローンを使うような派手な画像演出がないのが救いだった。映画は難しい。

(あ)

No.1294

普天を我が手に・第二部
(KODANSHA)
奥田英朗
 たった7日間しかなかった昭和元年に生まれた4人が、互いの運命を交差させながら昭和という時代を生きていく物語だ。第二部は敗戦、占領、抑留の真っただ中からスタートする。第一部は主人公の父親や母親の物語だった。ここからは本来の主人公である、その子供たちの登場である。金沢のヤクザ・矢野辰一が引き取って育てた「矢野四郎」、陸軍省軍務部勤務の少佐・竹田耕三の長男、「竹田志郎」、興業の世界で名を成すために渡満したジャズ楽団主催の五十嵐譲二の長男「五十嵐満」、そして婦人雑誌「群青」の編集者森村タキの長女である「森村ノラ」の4人だ。敗戦、占領、抑留の時代、主人公たちは20歳を迎える。志郎は父に伴われて渡米していたが、そこで捕虜になり、帰国後は捕虜収容所の通訳になる。四郎は父の死後、少年院に入り、出所後、予科練を志願し人間魚雷「回天」で出撃を期した。ノラは亀戸で喫茶店を任され、キリスト教の教会運営や孤児たちの救済運動に奔走する。満は満州で映画俳優として活躍するが、新国家建設を目指す秘密組織に属し、日本にやってくる。新たなる時代の寵児たるべく、希望を胸に、4人の青春は絡み合い、互いの運命を交差させながら、時代の先端に躍り出ていく……。

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