Vol.1306 2026年1月10日 週刊あんばい一本勝負 No.1298

さっそく「転倒」をしてしまった!

1月3日 去年、身辺の車からパソコン、台所用品や生活備品の数々を新しいものに買い替えた。そんな中、相変わらず「使いにくいなあ」と不満を持ちながら、いまだ使い続けているのが電気シェーバーだ。これは良さそうだと思うものは値段がバカ高い。そんなお金を使うならカミソリのほうが安上がりで、しかもキレイに剃れる。でもカミソリは泡クリームを使うのが面倒だ。理想は電気カミソリで顔をあたり、月に一、二度は泡クリームですっきりする、というものだが、その毎日のように使う電気シェーバーのお気に入りと出あわない。これが目下の悩みだ。

1月4日 舌の先っぽにできものができた。自分では勝手に「ああ、ビタミンCが不足だ」と信じて、オレンジジュースなどがぶ飲みする。栄養が偏ったり野菜や果物不足だと、こうした症状があらわれる。このところ体調は、サイズの合わないクツずれ以外は、すこぶる健康だ。おしっこが近くなると前立腺がんを心配し、舌が痛いと舌がんにおびえる年回りなのだが、夜中におしっこの回数は2〜3回だ。これはよく水分を摂るようになったせいと前向きに考えているのだが、頻尿症と言われれば、そうか、とうなづくしかない。

1月5日 出版関係の友人たちと北朝鮮を旅行していて帰国直前に逮捕された。過酷な拷問(自白薬を注射される)を受け、めげてしまう、という夢を見た。これが初夢。縁起でもないが、私の場合、夢にはかならずその原因となるリアルな現実が背後にある。それがアメリカのベネズエラ侵攻だ、とすぐに思いいたった。力による現状変更は露中だけではない。こんな非現実な世界があたりまえに起きる世の中なのだ。夢の細部まではっきり覚えているのも、しゃくに障る。細部はあやふやというのが夢の良いところなのに……。今日から仕事始め。気分一新、新しい一年に向かってスタートを切るのだが、まだ気持ちの中にベネズエラが残っていて体に力が入らない。

1月6日 毎年暮れになると発売される「おすすめ文庫王国2026」(本の雑誌社)という増刊号を買い、去年ヒットした文庫本をまとめ買いする。値段にすれば1万円ほどだ。その増刊号を買い忘れ焦った。新年にあわててアマゾンに注文、そこから15冊ほどをとりあえず選んで注文。すぐに届いた。ほしい本が年末年始でも翌日に届き、「娯楽」(文庫)が1万円以下で手にはいる。本は本当に安いと思う。これだけコスパの良い娯楽は他にない。

1月7日 気を付けて雪道を歩いているつもりだが昨日昼、散歩途中で転倒した。またやってしまった。両手首のあたりを打撲、夜痛くて眠れなかった。転んだ際に受け身をとったのが悪かったようだ。実は転んだ時の記憶が飛んでいる。場所や転倒後の行動は覚えているが、どんな状況で滑ったのか、その瞬間の記憶がないのだ。除雪中の小路で交通規制がかかっていたから、転んだらすぐ除雪関係者が、「救急車を呼びましょうか」と声をかけてくれた。なんとか自分で歩けそうなので、それを拒否して家まで歩いて帰ってきた。頭を打っていないようなのが、救いだった。健康がいかに偉大なものか、あらためて思い知らされている。

1月8日 内館牧子さんは私の一歳年上。お会いした時、背が高いのに驚いた。たぶん170センチ弱はあるのではないだろうか。いただいた名刺に大きく「東北大学相撲部総監督」と書いているのにも笑った。内館さんの書く高齢者小説のファンだ。いつも新刊を心待ちにしていたのだが、もう読めない。その代わりといっては失礼だが、田辺聖子にも「姥シリーズ」といわれる、70台後半の女性を主人公にした小説集がある。これからは田辺聖子を、と読み始めたのだが、やはりなじめない。会話や行動に関西ローカル色が強すぎるのだ。内館さんの物語の女主人公たちは「イキイキ」しているが、田辺の主人公は、こすっからい印象を受けてしまう。大阪船場の商人の血が流れる田辺の「枯淡の境地」というのは、東北の田舎育ちとは別世界なのだ。内館さんの遺筆の出版を待つしかないか(あればだけれど)。

1月9日 寒波が続いている。頻尿も、この寒さではやっかいだ。数日前から寝るときに靴下をはき、アウターを羽織って、寝るようにしている。これが功を奏したのか夜中に目を覚ます回数が減った。頻尿と体温は関連があるのだろうか。今しばらく続けてみよう。先日の転倒は、レントゲンを撮ったが骨に異常はなかった。でも痛め止めの薬を飲まないと体中がギシギシに痛む。やはりかなり派手な転び方をしたようだ。その瞬間を覚えていない。過去2回の転倒も、どのような状態で滑ったか、その後の対応など、細部まで覚えている。なのに今回は転ぶ前後は思いだせるが、肝心のスリップした瞬間の記憶がないのだ。これは実に不気味かつ不安なものである。

(あ)

No.1298

散歩哲学
(ハヤカワ新書)
島田雅彦
 雪が降ろうが停電だろうが台風だろうが散歩に出る。1980年に手形から広面に引っ越して家と仕事場が同じ敷地になった。いわゆる職住近接で通勤時間はわずか30秒。家に帰るのは夕食と寝るためだけなので、ほぼ引きこもり。これはいくら何でも心身にいいわけがない。という危機感からはじまったのが「散歩の習慣」だ。散歩が唯一の気分転換であり、外の社会と触れ合うための「方便」でもある。徘徊は太古からの人類の習癖。散歩は暇をつぶし、退屈を埋めるための最強の基本的な行動。よく歩くものはよく考える。よく考えるものは自由だ。自由は知性の権利……というのが本書の著者の言葉だ。私の散歩はそんな格好の良いものではない。散歩も仕事の延長で、だから道連れは万歩計ではなくICレコーダーだ。アイデアや考え事を歩きながら吹き込む。本の企画も散歩とICレコーダーから生まれたものが少なくない。背広を買ったのはいいが外に出ないので着る機会がない。そこで夜遅くの散歩に着込んで真っ暗な田んぼ道をファッションショーさながら歩いたこともあった。島田の祖母は八郎潟町真坂出身だ。母も祖母の生まれである秋田に疎開し、終戦後もしばらく秋田にとどまっていた。歩きながら街や山谷に埋め込まれた意味やメッセージを発掘するという意味では、散歩は読書に似ている、と言う。

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